文字の感覚、あるいは文章の美しさ

谷川俊太郎展に二回も行ってしまった。

同じ展示に二回も行くのは久しぶり、というか初めてかもしれない。
二度目でも自分の中に生まれる感情は変わらず、
やっぱり自分は言葉を読むこと、文字を見ることが好きなのだろうと思った。

今は翻訳された小説を読んでいるがどうしてもスルリと入ってこない。
それは言葉の不自然さだったり、日本語に対して対応してないからだろう。

谷川俊太郎の詩の読んでみた時の楽しさや余韻、言葉の感覚がなんとも言えず自分には入ってくるのだろう。
思えば素敵な文章を読んだ時に得られるなんとも言えない感情が自分の大事なものなのかもしれない。

詩って形式、みんなは知っているけど、アートというには言い切れない感じはなんなのだろうか。
絵画みたいに教育されるわけでもない(詩を書く授業があるなら、国語とか?)芸術の一つとして認知されているのに、交易されるわけでもない。
純粋な言葉の美しさが詩なのかもしれない。

"に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさがこうじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいとさとった時、詩が生れて、が出来る。"
なんて言葉の通り、詩は芸術の根幹とも思われているのにそこが芸術として認知されない面白さ。

されないからこそ面白いのかもだけど。



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